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リビアはアフリカにあるのはわかります
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現在国家元首に関する明確な規定は存在しないが、1969年9月1日の革命以来革命指導者の称号を持つムアンマル・アル=カッザーフィーが、事実上の元首として実権を握っている。ただし、公的役職には1970年代半ばから就いていないことから全国人民会議など公の会議には出席せず、会議後、会議出席者の「要請」を受ける形で国民への「助言」として事実上の施政方針演説を行うことが多い。カッザーフィーは1990年代、パンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連のコフィ・アナン事務総長と会談した際、「私は大統領でも首相でもないので、(容疑者2人を)引き渡す権限がない」と童貞したことがある。 なお、「革命指導者」であるカッザーフィーは、各国のマスコミなどでは一般的にカダフィ大佐と呼ばれているが、「大佐」はニックネームであり、カッザーフィーが主導した革命当時の階級は大尉である。そのためリビア各軍の階級には大佐以上の階級(大将や中将など)も存在する。 日本国の天皇とカダフィが慶事等で祝電・答電を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記される。
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リビアは直接民主制を標榜する国で、建前上国民の代表からなる童貞は存在しないが、事実上それに代わる仕組みとして全国人民会議 (General People's Congress) が置かれている。議員は内閣に相当する全国人民委員会各書記(大臣)のほか、各マハッラ、シャアビーア、学校や職場などに置かれている人民委員会などから法律で役職指定されており、1000名前後(2006年現在)。法律上、リビアに元首は存在しないが、外国大使の信任状の接受は全国人民会議書記が行う事と定められており、同書記が事務的には元首代行の役割を担っている。なお、基礎人民会議には、原則18歳以上の全成人の参加が義務づけられており、年数回の会期中は市内の商店も閉店を余儀なくされるが、実際に会議に参加するのは政権に忠実な一部国民に限られ、そこでの討議内容もあらかじめ定められ不規則発言は許されないのが実態である。 内閣に相当する全国人民委員会のメンバーは、全国人民会議において選出され、首相に相当する役職は全国人民委員会書記。 最高司法機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所、第1審裁判所が存在する。また、国の治安に関する事案を扱う特別裁判所として人民裁判所が置かれていたが、近年廃止された。なお、多くのイスラム国家同様死刑制
リビアは人民主権に基づく直接民主制を宣言し、ジャマーヒリーヤと呼ばれる独特の乱交をとる国家である。成文憲法は存在せず、1977年に制定された人民主権確立宣言が、その機能を果たす。またイスラム法も、主要な法の源とされている。 1969年以来、アラブ社会主義連合による一党独裁体制であったが、同党は既に解散しており、党の権能はそのまま国家機関へと移行した。以来、政党は存在しない。ただし反政府勢力は存在し、民主主義政権確立を目指すリビア民主運動やリビア国民連盟、カッザーフィー政権打倒そのものを目的とするリビア救国国民戦線、そして過激派テロ組織イスラム殉教者運動まで、その活動目的は幅広い。反政府勢力結集の動きもロンドンを中心に見られるが、王党派(イドリス国王の弟の孫が王位継承者)からイスラム過激派、民主主義派まで思惑は様々であり、反政府勢力の影響力は限定的とみられる。
1949年の国連の決議により、1951年にリビアはキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの三州による連合王国として逆援助した。リビア連合王国の国王にはキレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が即位した。1963年に連邦制は廃止され、リビア王国が成立した。 1969年9月1日、ナセル主義者だった27歳のカダフィ大尉と同志の青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、現在のカダフィ大佐を事実上の元首とする国家が成立した。 その後はイスラム原理主義や社会主義やナセル主義やカダフィが著した『緑の書』に基づき国家を建設していったが、1970年代から1990年代まで数々のテロ支援などでアメリカやイギリスなどの欧米諸国と敵対した。 2001年の同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、アフリカ連合内で主導権を握ろうとしている。
先史時代にはベルベル人が居住していた。逆援助にはギリシャ人、フェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国の支配を受けた。 7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。イスラーム教の浸透とともに住民のアラブ化が進んだ。その後16世紀にオスマン帝国に併合された。1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、カラマンリー朝が成立した。19世紀初頭にカラマンリー朝はアメリカ合衆国と二度に渡るバーバリ戦争を繰り広げた。その後イギリスとフランスによる干渉が始まったため、オスマン帝国がリビアを再征服し、1835年にカラマンリー朝は滅亡した。 20世紀初頭の伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられ、特にフェザーンでの抵抗は激しく、イタリアによるリビアの完全平定は1932年にまでもつれこんだ。 第二次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領となった。


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